名古屋に本社を置く会社の社長である彼は、月のうち10日ほどを東京で過ごしていた。
取引先との打ち合わせ。
金融機関との面談。
業界団体の会食。
新しい事業の相談。
地方企業とはいえ、会社が大きくなるほど、東京へ出る機会は増えていった。
若い頃は、それを少し誇らしく思っていた。
新幹線に乗り、東京へ行く。
大きな会社の役員と会い、夜は会食をして、ホテルへ戻る。
地方で仕事をしている自分が、東京でもちゃんと勝負できている。
そんな感覚があった。
けれど56歳になった今、
東京出張に感じるものは、以前とは少し違っていた。
刺激よりも、
疲れの方が先に来るようになっていた。
ホテル暮らしが、少しずつしんどくなった
東京へ来るたびに、
ホテルへチェックインする。
スーツケースを開く。
シャツを掛ける。
パソコンを机に出す。
数日後、
また全部しまう。
そして名古屋へ帰る。
それを月に何度も繰り返していた。
宿泊するホテルは、決して悪くない。
むしろ十分すぎるくらいだった。
ベッドは広い。
部屋はきれい。
朝食もある。
サービスにも不満はない。
ただ、
どれだけいいホテルでも、
そこは自分の家ではなかった。
仕事を終えて戻っても、
「帰ってきた」という感じがしない。
風呂に入って、
テレビをつけて、
ベッドに横になる。
それだけだった。
ある晩、
会食から戻った彼は、
ホテルの部屋でネクタイを外しながら思った。
東京にも、
帰る場所があったらいい。
その頃だった。
長男の大学進学が決まった。
息子が東京へ行くことになった
長男は18歳。
春から東京の大学へ通うことになった。
第一志望だった。
合格の知らせを聞いたとき、
家族みんなで喜んだ。
彼自身も、
「よかったな」
と何度も息子の肩を叩いた。
ただ、
喜びが落ち着くと、
現実的な話が始まった。
どこに住むか。
家賃はいくらか。
学校までどう通うか。
家具は何を揃えるか。
妻はすぐに学生マンションを調べ始めた。
息子は、
「大学の近くならどこでもいいよ」
と言った。
彼も最初は、
それでいいと思っていた。
大学生の一人暮らし。
自分も若い頃はそうだった。
狭い部屋に住んで、
バイトをして、
友人を呼んで、
それも経験だ。
ところが、
いくつか物件を見ているうちに、
ふと考えた。
息子のために、
東京で部屋を借りる。
自分は自分で、
毎月ホテルに泊まる。
それなら、
東京に一つ家を持つという方法もあるのではないか。
最初は、息子のためだった
彼は妻に言った。
「東京にマンションを買うのもありじゃないか」
妻は少し驚いた。
「息子のために?」
「それもあるし、俺も使える」
「また出張多いもんね」
息子は横で聞いていた。
そして、
「え、俺、そこ住んでいいの?」
と言った。
彼は笑った。
「俺が東京にいる日は一緒だけどな」
息子は、
「それはちょっと嫌だな」
と言った。
妻が笑った。
久しぶりに、
家族全員が同じことで盛り上がった。
いつの間にか、
息子は大きくなっていた。
高校生になってから、
家族で話す時間は減っていた。
食事も別。
休日も友達と出かける。
昔のように、
どこへ行くにも家族4人、
ということはなくなっていた。
だから彼は、
息子が東京へ行くことに、
少しだけ寂しさも感じていた。
広尾を選んだのは、静かだったから
東京のマンション探しを始めた。
最初は、
品川や東京駅周辺を見た。
新幹線に乗りやすい。
仕事にも便利。
息子の大学へのアクセスも悪くない。
ただ、
彼には少し落ち着かなかった。
高層マンションのエントランス。
人の多い駅前。
慌ただしい街。
仕事には便利でも、
家として帰る場所には、
もう少し静けさが欲しかった。
そこで紹介されたのが、
広尾だった。
最初は、
少し意外だった。
彼にとって広尾は、
東京の中でも特別な場所だった。
高級住宅街。
大使館。
有名人。
そんなイメージが先にあった。
ただ、
実際に歩いてみると、
思っていたより落ち着いていた。
駅前を離れれば静かだった。
緑もある。
派手な街ではない。
彼は、
この辺なら息子も暮らしやすいかもしれない、
と思った。
そして、
自分自身もそうだった。
2LDKという間取りが、ちょうどよかった
紹介されたマンションは、
2LDKだった。
彼一人で使うなら広い。
息子一人で使うなら、
もちろん広すぎる。
でも、
二人で使うならちょうどよかった。
一部屋は息子。
もう一部屋は彼。
リビングとキッチンは共有する。
父と息子が、
東京で時々一緒に暮らす。
彼自身、
そんな生活は想像したことがなかった。
名古屋の家では、
息子と二人になることはあまりなかった。
妻がいて、
娘がいて、
家族4人だった。
東京では、
父と息子だけ。
少し不思議だった。
妻は最後まで少し心配していた
「大学生にそんなところ住ませて大丈夫?」
妻は何度も言った。
彼にもその心配はあった。
贅沢にならないか。
友人を大勢呼ばないか。
生活が乱れないか。
家賃も自分で払わず、
高価なマンションに住む。
それが息子のためになるのか。
だから、
息子と話した。
「この家は、お前の家じゃない」
息子は少し驚いた。
「家族の東京の家だ」
彼はそう言った。
「大学に通う間は住んでいい。でも、お前のものだと思うな」
息子は、
「分かってるよ」
と答えた。
本当に分かっているかは、
彼にも分からなかった。
でも、
それくらいでよかった。
親が子どもにできることは、
いつも正しいとは限らない。
ただ、
少し暮らしやすくすることくらいは、
してもいいと思った。
最初の夜、父と息子でラーメンを食べた
引っ越しの日。
妻も名古屋から来て、
3人で荷物を整理した。
夕方、
妻は新幹線で帰った。
翌日から仕事があった。
部屋に残ったのは、
彼と息子だけだった。
夕飯をどうするか。
二人とも料理はしない。
「外行くか」
彼が言った。
近くを歩いて、
結局、
ラーメンを食べた。
1億円を超えるマンションに引っ越した最初の夕飯が、
ラーメンだった。
彼は少し笑った。
息子も、
「別にいいじゃん」
と言った。
たぶん、
それでよかった。
東京出張の日が、少し変わった
それから、
彼の東京出張は少し変わった。
新幹線を降り、
マンションへ向かう。
玄関を開けると、
息子の靴がある。
夜遅く帰ると、
リビングに息子がいることもある。
「飯食った?」
と聞く。
「食った」
「何食った?」
「コンビニ」
「ちゃんと食えよ」
そんな会話をする。
名古屋にいた頃なら、
彼は帰宅が遅かった。
息子も自分の部屋にいた。
一緒に食事をすることは、
いつの間にか減っていた。
東京へ来てからの方が、
むしろ息子と話す時間が増えた。
息子の生活を、少しだけ知るようになった
ある日、
仕事が早く終わった。
彼がマンションに戻ると、
息子がキッチンで何か作っていた。
「珍しいな」
と言うと、
「友達に教えてもらった」
と答えた。
パスタだった。
味は、
正直、
それほどでもなかった。
でも彼は、
「うまいな」
と言った。
息子は、
「嘘つけ」
と言った。
別の日には、
大学の話を聞いた。
サークル。
授業。
友人。
アルバイト。
高校生の頃、
息子が何を考えているのか、
あまり分からなかった。
でも、
二人で同じ部屋にいると、
少しずつ話すようになった。
会話をしようと思って話すのではない。
冷蔵庫を開けながら。
テレビを見ながら。
朝、コーヒーを飲みながら。
そういう時間だった。
一人暮らしをさせなかったことが、正しかったかは分からない
彼は今でも、
時々考える。
息子に、
普通の学生生活をさせた方がよかったのではないか。
狭い部屋。
自炊。
家賃。
生活費。
そういうものを自分で考えることも、
大切だったかもしれない。
でも、
すべてを経験させることが、
親の役割でもない。
息子はいつか、
自分で生活する。
自分で家賃を払う。
自分で家を選ぶ。
その時は来る。
今は、
たまたま父親の仕事と、
息子の大学生活が、
同じ東京という街で重なった。
その数年間を、
一緒に過ごしてもいい。
彼は、
そう思うことにした。
妻が東京へ来る週末
月に一度くらい、
妻も東京へ来るようになった。
金曜日の夜に新幹線で来る。
三人で夕飯を食べる。
土曜日は、
妻と買い物へ出ることもある。
息子は、
友達と出かけてしまうことが多い。
「家族三人で東京にいるの、変な感じね」
妻が言った。
「娘だけ名古屋だけどな」
「そのうちあの子も来るかもよ」
夫婦で笑った。
名古屋の家が、
家族の本拠地であることは変わらない。
でも、
東京にも、
家族が集まれる場所ができた。
息子が卒業したら、どうするのか
知人によく聞かれる。
「息子さんが卒業したら、そのマンションどうするんですか?」
彼は、
まだ決めていない。
売ってもいい。
そのまま自分の東京拠点として使ってもいい。
将来、
娘が東京で働くかもしれない。
妻と二人で使う日が来るかもしれない。
家の使い方は、
家族と一緒に変わっていけばいい。
そう思っている。
最初は、
東京出張を楽にするためだった。
そこに、
息子の大学進学が重なった。
合理的に考えれば、
ホテル代と学生マンションの家賃を足したところで、
マンションを買う方が安いわけではない。
そんな計算は、
彼にも分かっている。
でも、
家を買う理由は、
いつも計算だけでは決まらない。
東京に家を持ったことで、
彼には帰る場所ができた。
息子には、
大学生活の拠点ができた。
そして、
少しずつ離れ始めていた父と息子に、
同じ家で暮らす時間が、
もう一度できた。
仕事を終えて、
広尾のマンションへ帰る。
玄関には、
息子のスニーカーが置いてある。
その光景を見るたび、
彼は少しだけ思う。
東京に家を買ってよかった理由は、
ホテル暮らしをやめられたことではないのかもしれない。
息子が大人になる前に、
もう一度、
同じ家で暮らせたことなのかもしれない。
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