当選画面を見たとき、
最初に思ったのは、
「バグかな」
だった。
12億円。
数字が大きすぎて、意味が分からなかった。
僕は27歳。
大学を中退してから、これといった肩書きはない。
昼はUber Eatsの配達。
夜はたまに居酒屋。
暇な日はパチンコ。
家賃8万4,000円のワンルームに住んでいる。
貯金は、ほとんどなかった。
そんな僕の口座に、
ある日突然、
12億円が入ることになった。
メガビッグは、毎週なんとなく買っていた
別に夢を追っていたわけではない。
「いつか当てて人生逆転してやる」
なんて本気で思っていたわけでもない。
ただ、配達と配達の間にコンビニへ寄って、
コーヒーを買って、
ついでに買う。
その程度だった。
毎週1,200円とか、2,400円とか。
外れたら、
「まあ、そうだよな」
で終わり。
その日もそうだった。
夕方、渋谷で配達を終えて、
次の注文を待ちながらスマホを見た。
なんとなく結果を確認した。
数字を見た。
もう一度見た。
アプリを閉じた。
開き直した。
12億円。
「……は?」
声が出た。
スクランブル交差点の近くだったと思う。
周りには人がたくさんいた。
誰も僕を見ていなかった。
僕だけが、
昨日までとまったく違う人間になっていた。
その日は、普通にもう一件配達した
今思えば、おかしいと思う。
12億円当たったのに、
そのあとUberの注文を取った。
たしか、カレーだった。
恵比寿方面。
自転車で坂を上った。
背中のバッグの中には、
1,500円くらいのカレー。
スマホの中には、
12億円。
意味が分からなかった。
配達先はマンションだった。
オートロック。
内廊下。
ホテルみたいなエントランス。
受け取った男の人は、
僕とそんなに年齢が変わらなかった。
「ありがとうございます」
と言って、ドアを閉めた。
僕はエレベーターに乗りながら、
初めて考えた。
こういうところに、
僕も住めるのか。
最初の一週間は、何も買わなかった
ネットでは、
宝くじが当たったら仕事を辞めろとか、
誰にも言うなとか、
投資しろとか、
不動産を買えとか、
いろいろ書いてあった。
僕は、とりあえず誰にも言わなかった。
母にも。
友達にも。
バイト先にも。
Uberも続けた。
生活を変えるのが怖かった。
牛丼も食べた。
コンビニでペットボトルも買った。
電車にも乗った。
でも、
数字だけは毎日確認した。
12億。
11億9,999万……。
使っても減らない。
いや、減ってはいる。
でも、
僕の感覚の外側にある。
それが怖かった。
仕事を辞めるより先に、部屋を探した
ある日、
今のアパートに帰ってきて、
急に嫌になった。
狭いからではない。
古いからでもない。
隣の部屋の音が聞こえるからでもない。
「ここに住み続ける理由がなくなった」
そう思った。
そこで初めて、不動産サイトを見た。
最初は、
家賃30万円くらいの賃貸。
それでも高すぎると思った。
次に、
5,000万円の中古マンション。
次に、
1億円。
そして、
2億円。
値段の感覚が、
少しずつ壊れていった。
そんな中で見つけたのが、
恵比寿駅徒歩2分のマンションだった。
2億3,980万円。
42.57平方メートル。
2LDK。
思った。
「狭くない?」
12億円持ってるのに。
2億4,000万円近く払うのに。
42平方メートル。
でも、
なぜか気になった。
僕はずっと、この辺を走っていた
恵比寿は、
昔からよく配達で来る街だった。
ランチ。
ディナー。
深夜。
雨の日。
真夏。
真冬。
何百回も走った。
高そうなレストラン。
きれいなマンション。
カフェ。
バー。
ビルの裏口。
僕にとっての恵比寿は、
「遊びに来る街」ではなかった。
仕事をする街だった。
坂道のきつさも知っていた。
この交差点は信号が長い。
この道は夕方混む。
このマンションは入口が分かりにくい。
そんなことばかり覚えていた。
でも、
当選してから街を見ると、
少し違って見えた。
あの店、
客として入ってもいいんだ。
このマンション、
住んでもいいんだ。
それでも僕の頭の中には、
まだ配達員の地図が残っていた。
「12億あるなら、もっと広い家にすればいいのに」
唯一、当選を話したのは兄だった。
5歳上。
会社員。
結婚して、子どももいる。
最初は信じなかった。
口座を見せたら、
しばらく黙っていた。
僕がマンションを買おうと思っていると話すと、
兄は言った。
「いくら?」
「2億4,000万くらい」
「どこ?」
「恵比寿」
「広さは?」
「42平米」
兄は笑った。
「アホだろ」
僕も笑った。
たしかに。
12億円ある。
だったら、
もっと広い家が買える。
一戸建ても買える。
タワマンの最上階も、
場所によっては買える。
でも、
僕は広い家が欲しいわけではなかった。
欲しかったのは、「自分が知っている街の中の別世界」だった
内覧の日。
不動産会社の人は、
僕の職業欄を見て少し困った顔をした。
「現在のお仕事は……配達業ですか?」
「はい」
「ご購入方法は?」
「現金で」
一瞬、空気が止まった。
少しだけ面白かった。
案内された部屋は、
思っていたよりコンパクトだった。
でも、
きれいだった。
静かだった。
窓の外に、
いつも走っていた街が見えた。
僕はそこから道路を見下ろした。
配達員が走っていた。
黒いバッグ。
自転車。
赤信号で止まっている。
少し前までの僕だった。
いや、
今も僕だった。
仕事は、すぐには辞めなかった
マンションを買ってからも、
Uberを続けた。
兄には、
「なんで?」
と聞かれた。
自分でもよく分からなかった。
お金のためではない。
1日1万円稼いだところで、
もう何も変わらない。
でも、
いきなり何もしない人間になるのが怖かった。
起きる。
スマホを見る。
自転車に乗る。
注文を取る。
店へ行く。
届ける。
その繰り返しが、
僕にとっては生活そのものだった。
だから、
週に3日くらいは走った。
面白いことに、
自分のマンションの近くへ配達することもあった。
以前は、
高級マンションの入口で少し緊張した。
今は、
「俺も帰ったら似たようなとこに入るんだよな」
と思う。
それでも、
配達員用の入口から入る。
それでいい。
2億4,000万円を払って、42平方メートル
友達が知ったら、
たぶん理解できないと思う。
僕自身、
完全に理解しているわけではない。
資産価値。
立地。
将来性。
そういう理由も、
不動産屋からたくさん聞いた。
でも僕が買った理由は、
もっと単純だった。
恵比寿駅から近い。
一人で住むには十分。
街を知っている。
そして、
この部屋から、
昔の自分が走っていた場所が見える。
12億円当たったからといって、
僕は急に違う人間にはなれなかった。
ブランド品にも興味がない。
高級車も、
免許を持っていない。
ワインの味も分からない。
レストランへ行っても、
メニューの値段を見てしまう。
コンビニでおにぎりを買うときも、
180円はちょっと高いな、
と思う。
でも、
住む場所だけは変えた。
配達を終えて、恵比寿の家へ帰る
夜10時。
最後の配達を終える。
アプリをオフにする。
以前なら、
そこから30分以上かけて、
自分のアパートへ帰っていた。
今は違う。
恵比寿駅の近くまで戻る。
マンションのエントランスに入る。
黒い配達バッグを背負ったまま、
オートロックを開ける。
最初の頃は、
少し恥ずかしかった。
住民とエレベーターで一緒になると、
「配達です」
と言いそうになった。
でも、
5階のボタンを押す。
玄関を開ける。
バッグを床に置く。
シャワーを浴びる。
冷蔵庫から水を出す。
ソファに座る。
窓の外には、
まだ街の灯りがある。
スマホを見る。
残高は、
まだとんでもない数字だ。
僕はいまだに、
それを見るたび少し笑ってしまう。
人生が変わったのかと聞かれたら、
変わった。
たぶん、とんでもなく。
でも、
変わっていないものもある。
今日も自転車に乗った。
今日も配達した。
今日もコンビニに寄った。
そして、
昔は届ける側だったマンションへ、
今は自分が帰っていく。
12億円当たった。
それでも僕はまだ、
この街を自転車の速さで見ている。


