2億円あっても、浦和を出る理由がなかった。

埼玉

「2億出すなら、東京でも買えるんじゃない?」

妻にそう言われたとき、僕は少し考えた。

たしかに、その通りだった。

2億2,800万円。

マンションに払う金額としては、僕にとっても決して小さくない。

ましてや、ここは港区でも渋谷区でもない。

浦和だ。

それでも僕は、最初から東京の物件を探そうとは思わなかった。

というより、

東京に住むという発想そのものが、ほとんどなかった。

僕は58年間、ずっとこの街で生きてきた。

父の会社に入ったのは、29歳のときだった

祖父が始めた小さな建設会社を、父が大きくした。

僕が子どもの頃には社員が20人ほどいた。

父は朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる人だった。

日曜日でも電話が鳴れば出ていった。

だから高校生の頃の僕は、

「絶対にこの会社には入らない」

と思っていた。

大学は東京へ行った。

卒業後も、そのまま都内の大手ゼネコンに就職した。

新宿のワンルームに住んで、毎朝満員電車に乗った。

地方出張も多かった。

大きな現場に関われたし、仕事は面白かった。

東京には何でもあった。

店も、人も、仕事も。

浦和に帰るのは月に一度くらいだった。

駅に着くと、少しだけほっとした。

でも当時は、それを「地元だから」としか思っていなかった。

29歳のとき、父が倒れた。

命に別状はなかったが、しばらく仕事を休まなければならなくなった。

母から電話が来た。

「一度、会社を見てくれない?」

最初は半年だけのつもりだった。

半年が一年になり、

気づけば、もうすぐ30年になる。

浦和では、会社の名前より父の名前で呼ばれた

戻ってきて一番驚いたのは、父の付き合いの広さだった。

銀行へ行けば、

「お父さんには昔からお世話になっています」

と言われる。

取引先へ行けば、

「小さい頃、会社に遊びに来てたよね」

と言われる。

駅前を歩けば、父の知り合いに会う。

僕が知らないところで、

会社はこの街とずっと付き合ってきたのだと思った。

もちろん、いいことばかりではなかった。

僕が東京から戻った頃、

社員の何人かは僕のことを、

「社長の息子」

としか見ていなかった。

現場のことを知らない。

地元のことも知らない。

大手で働いていたというだけで、何ができるんだ。

そう思われていたと思う。

だから最初の数年は、とにかく現場へ行った。

職人さんと話した。

取引先を回った。

父が参加していた会合にも出た。

正直、面倒だと思ったことも何度もある。

でも10年ほど経った頃から、

「社長の息子」ではなく、

僕の名前で呼んでくれる人が増えた。

それが少し嬉しかった。

「東京へ出ないんですか」と、何度も聞かれた

会社が大きくなってから、

東京にも営業所を出した。

仕事の半分くらいは都内になった。

その頃から、よく聞かれるようになった。

「社長は東京に住まないんですか?」

取引先の社長は港区に住んでいる。

友人の経営者は麻布にマンションを買った。

会社がある程度うまくいけば、

都心に住む。

高級車を買う。

別荘を持つ。

そういう人も多い。

僕自身、それを否定するつもりはない。

一度、妻と東京のマンションを見に行ったこともある。

六本木だった。

エントランスに入った瞬間、

妻が小声で、

「ホテルみたい」

と言った。

僕もそう思った。

眺めもよかった。

部屋もきれいだった。

営業担当者が東京タワーを指さして説明してくれた。

すごいですね、と僕は何度も言った。

本当にすごいと思った。

でも帰りの車の中で、

妻に聞いた。

「住みたい?」

妻は少し考えてから、

「遊びに来るなら」

と答えた。

僕も同じだった。

家が広すぎるようになった

僕たちには、息子と娘がいる。

二人とももう家を出た。

息子は都内で働き、娘は結婚して横浜に住んでいる。

僕と妻が今住んでいる家を建てたのは、30代の終わりだった。

浦和の駅から少し離れた場所に土地を買って、

自分の会社で建てた。

4LDK。

庭もある。

当時はそれでも狭いくらいだった。

子どもの友達が遊びに来る。

夏には庭でバーベキューをする。

息子が部活の道具を玄関に放り出す。

娘のピアノの音がする。

いつも家のどこかに誰かがいた。

今は、夫婦二人だけだ。

使っていない部屋が二つある。

庭の手入れも、以前ほど楽しくなくなった。

二階へ洗濯物を運ぶ妻を見て、

そろそろこの家も、

僕たちには大きすぎるのかもしれないと思うようになった。

そんな頃、

浦和駅前に新しいタワーマンションができると聞いた。

「ここなら、引っ越しても何も変わらないね」

最初は興味本位だった。

浦和にタワーマンションか。

時代も変わったな。

そんな程度だった。

ところが間取りを見てみると、

85平方メートルを超える3LDKがあった。

リビングは19帖。

夫婦二人なら十分すぎる。

何より、駅まで歩いて3分だった。

内覧の日。

妻は窓から外をしばらく眺めていた。

そして言った。

「ここなら、引っ越しても何も変わらないね」

僕には、その意味がすぐ分かった。

いつものスーパーへ行ける。

いつもの美容院へ行ける。

行きつけの店にも歩いて行ける。

友人も近くにいる。

会社も近い。

病院も変えなくていい。

生活を小さくするために、

生活そのものを捨てなくていい。

それは僕たちにとって、

かなり大きなことだった。

2億2,800万円

価格を見たとき、

さすがに一度、画面を閉じた。

2億2,800万円。

昔の僕なら、

浦和のマンションにそんな金額を払う人がいるのか、と思っただろう。

会社の経理担当にでも見られたら、

何と言われるかわからない。

妻にも、

「高いよね」

と言われた。

「高いな」

と答えた。

「東京でも買えるよね」

「買えるだろうな」

「じゃあ、どうする?」

僕はそこで、少し考えた。

そして、

「でも、東京に住んで何するんだろうな」

と言った。

妻が笑った。

僕の仕事は浦和にある。

友人も浦和にいる。

会社の近くの蕎麦屋には、もう20年以上通っている。

銀行の支店長とは仕事だけでなくゴルフにも行く。

駅前で社員に会えば、一緒に飯を食うこともある。

商店街を歩けば、知っている顔がいる。

父の葬儀には、僕が名前を知らないほど多くの人が来てくれた。

僕が30年かけて作ったものの多くは、

会社の決算書には載っていない。

この街との付き合いだった。

それを全部置いて東京へ行く理由が、

どうしても見つからなかった。

成功したら、東京へ行くと思っていた

若い頃は、

成功というものには目的地があると思っていた。

もっと大きな会社。

もっと大きな仕事。

もっといい車。

もっと高い家。

そして、その先には東京がある。

浦和は出発地点で、

いつか離れていく場所なのだと思っていた。

でも58歳になって、

少し違う気がしている。

会社は、昔よりずっと大きくなった。

欲しかった車も買った。

行きたかった店にも行けるようになった。

東京に家を買おうと思えば、

買えないわけではない。

それでも、

僕は朝、いつもの道を通って会社へ行く。

昼になれば、いつもの店で定食を食べる。

帰りに浦和駅を通る。

そこには高校生がいて、

買い物帰りの家族がいて、

会社帰りの人がいる。

僕も、その中の一人だ。

結局、

成功したら浦和を出るのではなかった。

どこに住むかを自由に選べるようになって、

それでも浦和を選んだ。

たぶん、それだけのことなのだ。

引っ越しの日

最後の段ボールを運び出して、

僕は玄関に立った。

30年近く住んだ家だった。

柱には、子どもたちの身長を測った跡が残っている。

庭には、息子が小学生の頃に植えた木がある。

売ることも考えたが、

今のところは残してある。

いつか子どもたちが使うかもしれない。

会社の誰かが住むかもしれない。

まだ決めていない。

妻が、

「そろそろ行くよ」

と言った。

車で新居へ向かった。

時間にして十数分。

浦和駅が見えてくる。

新しいマンションの前で車を降りた。

エントランスに入り、

エレベーターで8階へ上がる。

玄関を開けると、

まだ家具のないリビングに午後の日差しが入っていた。

妻が窓辺に立った。

「なんか、不思議だね」

「何が?」

「引っ越したのに、引っ越した感じがしない」

窓の外には、

見慣れた浦和の街がある。

僕も少しだけ眺めた。

東京へ行かなかった。

海外にも行かなかった。

人生の後半に選んだのは、

ずっと暮らしてきた街の、

駅から3分の家だった。

2億2,800万円。

安いとは思わない。

たぶんこれからも、

安かったと思う日は来ないだろう。

それでもいい。

高い家が欲しかったわけではない。

僕が欲しかったのは、

これまでの人生を変えずに、

これからの人生だけを少し軽くする家だった。

妻が言った。

「晩ごはん、どうする?」

「駅前でいいんじゃない?」

「どこ?」

僕はいつもの店の名前を言った。

妻は、

「結局そこなんだ」

と笑った。

僕も笑った。

新しい家での最初の夜なのに、

行く場所は昔から変わらない。

たぶん、

それが僕たちにはちょうどいい。

2億円あっても、

浦和を出る理由はなかった。

この物件の詳細・資料請求はこちら(Yahoo!不動産)

※物件情報は掲載時点のものです。売約済みや価格変更の場合があります。最新情報はYahoo!不動産の物件ページでご確認ください。記事中の月々返済額はシミュレーションによる目安であり、実際の返済額は借入条件により異なります。

※本記事はフィクションです。登場人物・エピソードはすべて架空のものです。本記事はアフィリエイト広告を含みます。掲載画像はイメージであり、実際の物件とは異なる場合があります。