「来年で住宅手当、終わるんだよね」
夫がそう言ったのは、娘が寝たあとのことだった。
夫は39歳。新卒から17年間、大手電機メーカー系の会社に勤めている。いわゆるJTCと呼ばれるような会社だ。転職経験はなく、現在は事業企画部の課長代理。勤務先は幕張新都心にあるオフィスで、週3日は出社、残りは在宅勤務をしている。
妻は37歳。大手食品メーカーの人事部で働いている。勤務地は東京駅方面だが、こちらも週の半分以上は在宅勤務。5歳になる娘が一人いる。
世帯年収は1,200万円を少し超えるくらい。
二人とも大企業勤務で、仕事も収入も比較的安定していた。
だからこそ、家を買うなら東京だと思っていた。
40歳で住宅手当が終わる
現在暮らしているのは、市川市内の駅近2LDK。
家賃は16万円ほど。夫の会社から月4万円の住宅手当が出ているため、実際の負担は12万円程度だった。
この条件なら、特に不満はない。
駅にも近い。東京への通勤もしやすい。娘の保育園も近い。
ただ、夫の会社では40歳になると住宅手当が終了する。
来年から、何もしなくても住居費が毎月4万円増える。
しかも娘は翌春から小学生になる。
妻が言った。
「どうせ家を買うなら、小学校に入る前に決めた方がよくない?」
転校はできれば避けたい。
夫も同じことを考えていた。
住宅手当の終了。
娘の小学校入学。
そして夫の40歳。
いくつかのタイミングが重なったことで、夫婦は本格的に家を探し始めた。
最初に見たのは、豊洲だった
二人には、なんとなくタワーマンションへの憧れがあった。
ホテルのようなエントランス。
高層階からの景色。
内廊下。
ラウンジ。
共用施設。
夫婦とも会社員で、戸建ての庭を手入れするような生活より、マンションの方が自分たちには合っていると思っていた。
そこで最初に見たのが、豊洲だった。
次に有明。
晴海も見た。
どの街もきれいだった。
マンションも素晴らしかった。
妻はモデルルームへ行くたび、
「やっぱりタワマンいいね」
と言った。
夫も同じだった。
ただし、価格表を見るまでは。
8,000万円が、普通に出てくる
60㎡台。
2LDKや3LDK。
特別広いわけでもない。
それでも7,000万円台、8,000万円台。
条件によっては1億円近い。
住宅ローンの相談をすると、
「ご年収なら十分ご検討できます」
と言われた。
確かに、借りることはできる。
頭金もある。
夫婦の貯蓄は合わせて1,500万円を超えていた。
それでも夫は、
毎回同じことを考えた。
本当にそこまで払う必要があるのか。
大企業勤務だから、高い家を買う必要はない
会社の同期には、都内でマンションを買った人も多い。
世田谷。
豊洲。
武蔵小杉。
湾岸のタワーマンション。
飲み会になると住宅ローンの話になる。
「今買わないともっと上がる」
「資産価値考えたら駅近だよ」
「せっかくなら23区でしょ」
そんな話を聞いていると、自分も東京に買わなければいけないような気になった。
でもある夜、住宅ローンのシミュレーションを見ながら、妻が言った。
「ねえ、私たちって、なんで東京に住もうとしてるんだろうね」
夫は答えられなかった。
妻は東京方面へ通勤している。
でも毎日ではない。
夫に至っては、勤務先は幕張新都心だ。
東京にマンションを買えば、夫は毎朝東京方面へ移動して、そこから千葉へ戻ることになる。
妻が笑った。
「あなた、会社の近くに住んだ方が楽じゃない?」
当たり前の話だった。
海浜幕張という選択肢
海浜幕張は、夫にとって「会社がある街」だった。
毎週何度も来ている。
でも住む場所として真剣に考えたことはなかった。
休日に家族で歩いてみた。
駅を出る。
公園がある。
道が広い。
街路樹がある。
少し歩けば住宅街が広がっている。
妻が言った。
「思ってたより、ちゃんと生活する街なんだね」
夫もそう思った。
オフィスビルとイベント会場の街。
それまでのイメージは、その程度だった。
でも実際には、スーパーもある。学校もある。公園もある。
そして、タワーマンションが並ぶ街がある。
5,780万円のタワーマンション
見つけたのは、海浜幕張駅から徒歩15分の中古タワーマンションだった。
13階。
2LDK。
専有面積は約60㎡。
価格は5,780万円。(realestate.yahoo.co.jp)
豊洲や晴海を見たあとだったので、
夫婦は価格を二度確認した。
「同じタワマンだよね?」
妻が言った。
もちろん、同じではない。
立地も違う。
駅距離も違う。
専有面積も約60㎡なので、決して広いわけではない。
それでも、総戸数497戸の大規模な免震タワーレジデンスで、24時間有人管理。キッズルームやゲストルーム、スカイビューラウンジもある。各階にはゴミステーションまで設けられていた。(realestate.yahoo.co.jp)
妻は言った。
「私たちがタワマンに欲しかったもの、だいたいあるね」
確かにそうだった。
駅徒歩15分をどう考えるか
一つだけ気になったのが、駅までの距離だった。
徒歩15分。
今の家より遠い。
妻は東京へ通勤するので、そこは無視できない。
実際に駅から歩いた。
娘も一緒だった。
途中で、
「まだ?」
と聞かれた。
夫婦で笑った。
楽ではない。
雨の日もある。
夏は暑い。
でも夫は考えた。
自分は週3日しか電車に乗らない。
しかも勤務先は幕張新都心。
自転車でも行ける距離だった。
妻も毎日出社するわけではない。
駅徒歩5分のために、あと2,000万円、3,000万円払うのか。
そう考えると、
徒歩15分は急に現実的な数字に見えてきた。
スーパーまで160メートル
もう一つ、妻が気に入った理由があった。
スーパーが近かった。
マンションからイオンスタイルまでは約160メートル。
コンビニは約60メートル。(realestate.yahoo.co.jp)
妻が言った。
「駅って毎日行かないけど、スーパーはほぼ毎日行くんだよね」
夫はなるほどと思った。
家探しをしていると、
駅徒歩何分ばかり気にしていた。
でも在宅勤務が増えた今、
生活で一番使う場所が駅とは限らない。
仕事。
買い物。
保育園。
学校。
公園。
日々の生活を考えると、
駅から15分という数字だけで、この場所を評価するのは少し違う気がした。
60㎡で3人暮らし
間取りは2LDKだった。
娘は一人。
夫婦の寝室。
娘の部屋。
それで二部屋。
在宅勤務用の個室はない。
最初は夫も妻も、
「もう一部屋あった方がいいかな」
と思った。
でも共用施設を見ているうちに、考えが変わった。
家の中にすべてを作る必要はない。
気分を変えたければ、共用スペースへ行けばいい。
両親が泊まりに来れば、ゲストルームを使うこともできる。
娘が小さいうちはキッズルームもある。
妻が言った。
「マンション全部が家みたいなものだと思えば、60㎡でもいいのかも」
それはタワーマンションならではの考え方だった。
「都心に1億円」ではなく、「海浜幕張に5,780万円」
夫婦は最後まで豊洲の物件と迷った。
都心への近さ。
資産価値。
駅距離。
東京アドレス。
豊洲には分かりやすい魅力があった。
でも価格は大きく違った。
夫は住宅ローンの返済額を並べてみた。
毎月の差額。
年間の差額。
それを20年、30年と積み上げる。
そのお金があれば何ができるか。
娘の教育費。
家族旅行。
老後資金。
投資。
車を買ってもいい。
妻が仕事を少し減らしたくなったときにも、選択肢が残る。
夫は思った。
大企業に勤めているという理由だけで、
高い住宅ローンを背負う必要はない。
安定した会社にいるからこそ、
無理をしなくてもいいのではないか。
通勤時間が、家族の時間になった
引っ越してから、
夫の生活は大きく変わった。
以前は市川から幕張へ通勤していた。
朝、電車に乗る。
帰りも電車。
それが今は、
天気がよければ自転車で会社へ行く。
十数分。
以前より遅く家を出られる。
帰宅も早い。
娘がまだ起きている時間に帰れる日が増えた。
ある日の夕方。
夫が玄関を開けると、
娘が走ってきた。
「パパ早い!」
以前なら、
娘が寝る直前に帰る日も多かった。
ほんの30分。
40分。
でも、
毎日の30分は大きかった。
妻は東京へ通っている
妻の通勤は、以前より少し大変になった。
そこは間違いない。
駅まで歩く。
京葉線に乗る。
東京駅からさらに移動する。
雨の日には、
「やっぱり駅近がよかった」
と言うこともある。
でも週2日の出社だから、許容できる。
在宅勤務の日は、
むしろ今の方が暮らしやすい。
昼休みにスーパーへ行く。
仕事が終われば、すぐ娘を迎えに行ける。
妻は言った。
「毎日東京に行く生活だったら、ここは選ばなかったと思う」
だからこそ、
今の自分たちには合っていた。
同期に「千葉?」と言われた
ある日、
会社の同期と飲みに行った。
家を買った話になった。
「どこ?」
と聞かれて、
「海浜幕張」
と答えた。
同期は、
「千葉にしたんだ」
と言った。
少しだけ、
「東京じゃなくて?」
という響きがあった。
以前の夫なら、
気になったかもしれない。
でも今は、
「会社から近いし、結構いいよ」
と普通に答えた。
同期は都内に8,000万円台のマンションを買ったという。
それもいいと思う。
どちらが正しいわけでもない。
ただ、
自分たちには、自分たちの答えがあった。
JTCに17年勤めて分かったこと
夫は新卒で会社に入った。
同期と同じ研修を受け、
同じように配属され、
少しずつ昇進してきた。
大きな会社にいると、
なんとなく人生の「標準ルート」が見えてくる。
30代で結婚する。
子どもが生まれる。
40歳前後で家を買う。
できれば東京。
駅近。
資産価値の高いマンション。
間違ってはいない。
でも、
全員が同じ家を買う必要はない。
夫婦の働き方は変わった。
毎日会社へ行かなくなった。
勤務地も東京ではない。
子どもは一人。
それなら、
住宅の選び方も変わっていい。
東京で働いていても、東京に住まなくていい
休日。
家族三人でマンションを出る。
スーパーへ行く。
公園へ寄る。
少し遠くまで散歩する。
高い建物の間を抜ける風が、
以前住んでいた街とは少し違う。
妻が、
「ここにしてよかった?」
と聞いた。
夫は、
「よかったんじゃない?」
と答えた。
5,780万円。
決して安い買い物ではない。
でも、
1億円近い家を買わなくても、
欲しかった暮らしは手に入った。
タワーマンション。
家族三人の部屋。
共用施設。
スーパーの近さ。
夫の短い通勤時間。
そして、
住宅ローン以外にも使えるお金。
家探しを始めた頃、
夫婦は東京に住むことを前提にしていた。
でも途中で、
その前提を一度外してみた。
すると、
自分たちが本当に欲しかったものが見えてきた。
東京で働いているからといって、
東京に住まなければならないわけではない。
大企業に勤めているからといって、
1億円の家を買わなければならないわけでもない。
夫婦が選んだのは、
「買える家」の中で一番高い家ではなかった。
これからも、
無理なく暮らせる家だった。
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