「3LDKで、70㎡くらいは欲しいよね」
家探しを始めた頃、夫婦は当たり前のようにそう話していた。
夫は36歳。妻は34歳。4歳になる娘が一人いる。二人とも会社員で、世帯年収は900万円ほど。今は都内の2LDK賃貸マンションで暮らしている。
子どもが生まれる前は十分だった部屋も、最近は少しずつ物が増えてきた。
おもちゃ。絵本。季節ごとの子ども服。保育園の荷物。
娘が小学生になれば、自分の部屋も必要になるかもしれない。
そろそろ家を買おう。
そう考えたとき、夫婦が思い浮かべたのが「3LDK・70㎡」だった。
なぜ70㎡なのか。
その理由を、二人ともよく分かっていなかった。
みんなが探している条件を、そのまま探していた
最初は新築マンションを見た。
駅徒歩10分以内。3LDK。70㎡前後。築浅ならなお良い。
不動産サイトで条件を入れる。
出てくる物件を見る。
価格を確認する。
そして、そっと画面を閉じる。
6,000万円台ならまだいい。
7,000万円。
8,000万円。
条件によっては、それ以上。
夫は何度か住宅ローンのシミュレーションをした。
世帯年収900万円なら、借りられない金額ではない。
でも、借りられることと、返し続けられることは違う。
妻が言った。
「家買ったら、毎月これだけ払うんだよね」
「うん」
「保育園終わったら、今度は習い事とか塾とか出てくるよね」
「出るだろうね」
「じゃあ、家にそんなに使って大丈夫かな」
夫も同じことを考えていた。
70㎡という数字を疑ってみた
ある夜、妻が不動産サイトを見ながら言った。
「ねえ、本当に70㎡いる?」
夫は少し考えた。
「みんなそのくらい探すんじゃない?」
「それ、理由になってないよ」
確かにそうだった。
3LDK。
70㎡。
駅徒歩10分。
築浅。
家を探しているうちに、いつの間にかそれが「普通の家族が買う家」の条件になっていた。
でも、自分たち家族に本当に必要なのか。
二人でもう一度考えてみた。
子どもは今のところ一人。
もう一人欲しいという話も、以前はしていた。でも最近は、夫婦とも「この三人で暮らすのもいいね」と思っている。
夫婦の寝室。
娘の部屋。
リビング。
それなら、2LDKでも成立する。
来客用の部屋は?
いらない。
両親が泊まりに来ることは?
年に一度あるかどうか。
だったらホテルでもいい。
夫の書斎は?
週に二度ほど在宅勤務があるが、一部屋まるごと必要というほどではない。
リビングの一角でもできる。
一つずつ考えていくと、70㎡という数字から、少しずつ自由になっていった。
「アフォーダブル」という考え方
前に夫が調べていた「アフォーダブル住宅」という言葉を、妻も知るようになった。
一般的には、所得に対して無理のない負担で住める住宅という考え方。
東京都でも、子育て世帯などが手頃な家賃で暮らせる住宅を「アフォーダブル住宅」として供給する動きがある。
もちろん、夫婦が探している中古マンションは、そうした制度上のアフォーダブル住宅ではない。
でも、
「自分たちの収入に対して、住居費が重すぎないこと」
という考え方は同じだった。
夫婦は、家探しの基準を変えた。
「欲しい条件」を並べるのではなく、
「なくても困らない条件」を外していく。
その結果、候補に入ってきたのが成増だった。
成増なら、都心を諦めなくていい
二人とも仕事は都内。
完全な郊外へ移ることも考えた。
埼玉。
千葉。
多摩方面。
同じ価格なら、もっと広い家がある。
でも、通勤時間が大きく伸びるのは避けたかった。
毎日のことだからだ。
家が広くなっても、朝と夜の通勤が片道20分、30分増える。
それを20年続ける。
夫婦にとって、それは「安く家を買うための代償」として少し大きかった。
成増なら、都心へのアクセスを大きく変えずに済む。
駅から多少歩いてもいい。
その代わり、広さは60㎡未満でもいい。
新築でなくてもいい。
そう条件を変えると、家探しは急に現実的になった。
54㎡という数字
見つけたのは、板橋区成増にある中古マンションだった。
約55㎡の2LDK。
価格は4,890万円。
築20年ほどだが、室内はリフォームされている。
駅までは徒歩11分。
最初に数字だけを見たとき、夫は言った。
「54㎡か。狭くない?」
妻も少し不安だった。
でも、実際に部屋へ入ってみると、印象は違った。
リビング。
夫婦の寝室。
もう一部屋。
三人で暮らすなら、普通に成立する。
娘が自分の部屋を欲しがる頃には、その一部屋を使えばいい。
妻は何度か部屋を歩いて、
「私たち、これで十分じゃない?」
と言った。
夫もそう思い始めていた。
「狭い」の基準は誰が決めたのか
家に帰ってからも、二人で話した。
55㎡。
数字だけ見れば、小さい。
友人が70㎡の3LDKを買った話も聞く。
SNSを見れば、広いリビングや大きなキッチンの写真が流れてくる。
だから、55㎡を選ぶことが「妥協」に思えていた。
でも妻が言った。
「広い家に住んだら、幸せになるわけじゃないよね」
当たり前の話だった。
広ければ、その分だけ価格が上がる。
固定資産税も上がる。
管理費や修繕積立金も、場合によっては大きくなる。
家具も増える。
掃除する場所も増える。
もちろん、広い方が快適なこともある。
ただ、その快適さに毎月いくら払うのか。
夫婦が考えたのは、そこだった。
月々の余白を残す
4,890万円。
安い家ではない。
でも、当初見ていた7,000万円台の新築マンションとは大きく違う。
住宅ローンを組んでも、毎月の家計にある程度の余白が残る。
夫婦は、その余白の使い道を考えた。
娘の教育費。
年に一度の旅行。
車は持たない代わりに、必要なときはレンタカー。
夫の趣味。
妻が友人と出かけるお金。
そして、将来の貯蓄。
家を買ったからといって、それ以外を全部我慢する生活にはしたくなかった。
「毎日過ごす家は大事だけど、家だけが人生じゃないよね」
妻はそう言った。
娘の部屋は、まだいらない
引っ越したあと、娘にはまだ個室を与えなかった。
本人も欲しがらなかった。
おもちゃはリビング。
寝るのも両親と一緒。
空いている一部屋は、夫の仕事スペースと収納を兼ねている。
数年後、
娘が「自分の部屋が欲しい」と言ったら、そのとき考えればいい。
夫の仕事机をリビングへ移す。
収納を整理する。
家具を変える。
家族の暮らしに合わせて、部屋の使い方も変える。
最初から将来のすべてを想定して、余分な部屋を買っておく必要はない。
そう思えるようになった。
「二人目は?」と聞かれること
友人から、
「2LDKなら、二人目できたらどうするの?」
と聞かれたことがある。
夫婦は顔を見合わせた。
以前なら、不安になったかもしれない。
でも今は、
「そのとき考えるよ」
と答えられる。
二人目が生まれるかもしれない。
転勤するかもしれない。
仕事を辞めるかもしれない。
親の介護が始まるかもしれない。
20年後まで完璧に対応できる家を買おうとすると、家はどんどん大きく、高くなる。
でも人生は、そんなに予定通りには進まない。
ならば、
今の自分たちに必要な家を選ぶ。
将来変わったら、そのときまた考える。
それでいい。
70㎡の家を買わなかったこと
引っ越して半年ほど経った頃。
妻がリビングで洗濯物を畳みながら言った。
「狭い?」
夫は部屋を見回した。
娘は床で絵を描いている。
ソファがある。
ダイニングテーブルがある。
キッチンでは夕飯の準備ができる。
「別に」
と答えた。
妻も、
「私も」
と言った。
もちろん、もっと収納が欲しいと思うことはある。
娘のおもちゃが増えると、部屋が散らかる。
友人家族が遊びに来れば、少し窮屈だ。
でも、
そのためにあと15㎡買う必要があったかと聞かれれば、
二人とも、もう必要ないと思っている。
アフォーダブルな住まいは、条件を下げた家ではない
夫婦が選んだ家は、制度としての「アフォーダブル住宅」ではない。
それでも、彼らの住宅選びには、アフォーダブルという考え方があった。
無理なく払える。
家を買ったあとにも、生活の余白がある。
そのために必要なのは、単純に安い物件を探すことではなかった。
自分たちに何が必要なのかを考えることだった。
70㎡。
3LDK。
新築。
駅徒歩5分。
一つずつ外してみる。
そして最後に残ったものを見る。
都内に住みたい。
通勤時間は長くしたくない。
娘の部屋は将来つくりたい。
安心して毎月ローンを払いたい。
家族旅行にも行きたい。
それが、三人にとって本当に必要な条件だった。
「足りない」より、「ちょうどいい」
以前は54㎡と聞くと、
「足りない」
と思っていた。
今は、
「ちょうどいい」
と思っている。
同じ数字でも、
見え方は変わった。
大きな家を買わなかった。
高い新築も買わなかった。
その代わり、
住宅ローンだけのために働く生活も選ばなかった。
夫婦が成増で買ったのは、
必要以上に広くない2LDKだった。
でもそこには、
三人で暮らす場所がある。
娘が育つ場所がある。
そして、
家の外の人生に使える余白も残っている。
アフォーダブルな住まいとは、
安い家のことではない。
必要のないものにまで、お金を払わない家。
この家族にとっては、
54㎡が、
その答えだった。
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