朝七時十五分。洗面所の前で、また三人がぶつかった。
「先に歯だけ磨かせて」「今日、髪を結んでほしいんだけど」「ごめん、八時から会議だから、あと五分でここを使いたい」
36歳の直樹と、34歳の亜希。小学二年生の娘・結菜と三人で、相模原市内の2LDKに暮らしていた。
直樹は町田のメーカーで商品企画を担当し、週に二日は在宅勤務。亜希は市内の総合病院で医療事務として働いている。結菜の小学校は家から近く、買い物にも困らない。暮らせないほど狭いわけではなかった。
それでも毎日のどこかで、家族の予定が同じ場所に重なった。
ある雨の朝、洗面所の順番をめぐって結菜が泣いた。学校に遅れるほどの時間ではない。ただ、急かされることが悲しかったらしい。
その夜、亜希が言った。「広い家が欲しいというより、朝に誰かを待たなくていい家が欲しい」
それが、三人の家探しの始まりだった。
駅近を条件にしたら、今と同じ間取りが並んだ
最初に決めた条件は、駅徒歩15分以内だった。
直樹は電車で町田へ通う。亜希も病院への移動を考えると、駅から遠い家には抵抗があった。将来、結菜が電車通学する可能性もある。
ところが駅に近い新築戸建を探すと、予算を超えるか、土地が小さく三階建てになる。中古マンションなら選択肢は増えたが、3LDKが中心で、直樹の仕事部屋を確保すると結菜の個室がなくなる。
今の不便を解消するための住み替えなのに、間取り図を見るたび、別の我慢を探しているようだった。
不動産会社の担当者から「徒歩分数を二十分台まで広げてみませんか」と言われたときも、亜希はすぐには頷かなかった。
それでも、一度だけ条件を外して検索した画面に、相模原市南区御園四丁目の新築戸建が表示された。
徒歩29分という数字の向こう側
小田急相模原駅から徒歩29分。
価格は4,480万円。土地115.79㎡、建物93.96㎡の4LDKで、2026年10月完成予定。二階建ての木造住宅だった。
最初に地図を見た直樹は、「やっぱり遠いな」と言った。
けれど、駅までの距離以外を一つずつ確認すると、見え方が変わった。亜希の職場へは車で通いやすく、日常の買い物も駅前だけに頼らなくていい。結菜の生活圏を大きく変えずに済み、4つの居室がある。
現地を見に行った日は、駅から実際に歩いてみた。
家探しで初めて、「駅から何分か」ではなく、「一週間のうち何回、その道を歩くのか」を考えた。
4LDKは、四つの部屋ではなく四つの予定だった
間取りを見ながら、三人は部屋の使い方を決めていった。
一階のLDKは、食事と家族の場所。二階には夫婦の寝室、結菜の部屋、直樹の仕事部屋をつくる。残る一室は、最初から用途を決めなかった。
亜希の遅番前の仮眠室にしてもいい。遠方に住む両親が泊まる部屋にもなる。結菜が大きくなり、持ち物や勉強道具が増えたら、家族共用の収納に変えられる。
直樹の会議が始まっても、結菜はリビングでテレビを見られる。亜希が遅番から帰った日は、仕事部屋の扉を閉めれば、直樹の資料が食卓を占領しない。
亜希が欲しかった「待たなくていい家」の形が、ようやく見えてきた。
4,480万円の先にある毎月を考える
もちろん、間取りが気に入っただけでは決められない。
4,480万円の住宅ローンに加え、固定資産税や火災保険、将来の修繕費が必要になる。マンションのように管理費と修繕積立金が毎月決まっているわけではないから、自分たちで屋根や外壁、給湯器の交換に備えなければならない。
二人は現在の家賃との差額だけで考えず、車の費用、教育費、十年後の修繕費まで表にした。
直樹の収入が一時的に減った場合。亜希が働き方を変えた場合。結菜が私立高校を選んだ場合。楽観的な計算だけでなく、少し厳しい条件でも返済が続けられるかを確認した。
その結果、二人は駅までの時間を受け入れる代わりに、家の中で毎日失っていた時間を取り戻せると考えた。
新築だから安心、で終わらせない
新築には、中古住宅とは違う安心感がある。設備が新しく、当面は大きな修繕も少ない。けれど二人は、完成前の印象だけで決めないようにした。
自分たちが何に困っていて、どの設備や間取りがそれを解決するのか。二人はそこから話をそらさないようにした。
駅から遠くなって、朝が短くなった
引っ越し後、最初の月曜日。
直樹は自分の部屋で八時からの会議を始めた。亜希は一階で身支度をし、結菜は鏡の前で髪を結んでいる。
誰も洗面所の前に並ばない。食卓には朝食だけが置かれ、仕事の資料もランドセルも重なっていない。
七時四十五分、亜希と結菜が玄関を出た。直樹は二階の窓から手を振り、すぐに会議へ戻った。
結菜は友達を呼ぶようになった。亜希は遅番の前に、空いている部屋で短く眠れるようになった。直樹は会議のたびに家族へ「静かにして」と言わなくなった。
けれど、朝の順番待ちはなくなり、夜に食卓を片づけて仕事を始める時間もなくなった。
家までの道は長くなったのに、家族の一日は少し短く、穏やかになった。
直樹は駅からの帰り道、ときどき歩数を確認する。以前なら欠点にしか見えなかった数字だ。
今はその先に、誰にも場所を譲らなくていい家がある。
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