小林葉月が大森を選んだのは、偶然だった。
渋谷の出版社に勤める葉月は42歳。独身。10年住んだ三軒茶屋の賃貸が値上がりし、更新のタイミングで「払い続けるか、買うか」を真剣に考えた。賃貸派のつもりだったが、計算すると「あと30年払い続けても、何も残らない」という事実が重くのしかかった。
大森は、職場の先輩が「静かでいい」と言っていた街だ。渋谷から京浜東北線で30分かからない。
最上階×角部屋という条件
内見当日、エレベーターで10階に上がった。扉を開けると、南向きの光が部屋の奥まで届いていた。上に住人がいない最上階で、角部屋だから二面採光になっている。
午後2時の光の量を、葉月はしばらく黙って見ていた。
三軒茶屋の賃貸は日当たりが悪かった。それが10年間、じわじわとストレスになっていたことに、この部屋に入って初めて気がついた。
築47年とリノベーションのこと
1980年築の鹿島建設施工。鉄骨鉄筋コンクリート造で、躯体の堅牢さは折り紙付きだ。2017年に内装を全面リノベーション済みで、室内は築年数を感じさせない。
葉月が気に入ったのは、その「古い箱に新しい空間が入っている」感覚だった。新築マンションのどこかよそよそしい均質さとは違う。壁の厚さや天井の高さに、1980年代の建物らしい余裕がある。
6,480万円という価格を聞いた時、高いとは思わなかった。大森の駅から5分、最上階角部屋で、フルリノベ済み。同条件の新築を探せばまず存在しない、という事実があった。
頭金1,200万円を入れて35年ローンを組むと、月々約17万円。管理費と修繕積立金を合わせると月約21万円。今の家賃より4万円ほど高くなるが、「積み上がるものができる」という感覚が決め手になった。

大森という場所について
大森は、渋谷や恵比寿のような「おしゃれな街」ではない。でも葉月にとってはそれが良かった。
まいばすけっとが46m先にある。商店街が170m先にある。必要なものが全部、自分のペースで歩ける距離に収まっている。
編集者という仕事は、締め切り前に深夜まで働き、それ以外は完全に自分の時間を持つ、という極端なリズムがある。休日に街を徘徊したい時もあれば、一日中部屋にいたい時もある。大森には、どちらにも対応できる「余白」がある気がした。
10階から見える景色
バルコニーから東の方角を見ると、東京湾が少し見える。毎日見るには遠すぎる距離だが、天気の良い日にそこにあると知っているだけで、なぜか気持ちが落ち着く。
南向きの光の中で仕事をして、夜は商店街で惣菜を買って帰る。週末は、特に何もしない。
42歳で初めて「自分の場所」ができた気がしている、と葉月は言う。
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