アルバムが完成するたび、榊原蓮は少しずつ空っぽになった。
43歳。デビューから十八年、アリーナ公演を満員にする人気ミュージシャンだ。都心の自宅には最新の防音室があり、事務所にも専用スタジオがある。それでも制作を始めると、売上や再生回数、締切の数字が先に浮かんだ。曲を書く場所が、曲を納品する場所になっていた。
「次の作品は、完成日を決めずに始めたい」
そのためには、仕事の延長ではない場所が必要だった。
六つの部屋と、決めなくていい余白
蓮が選んだのは、葉山町長柄のリノベーション済み中古戸建だった。1992年築、6LDKに二つの納戸とウォークインクローゼット。土地約443平方メートル、建物約279平方メートル。価格は1億3,999万円。カースペースは複数台分あり、大型の建物は8LDKにも対応できるという。
一般的な住宅としては、ひとりで使うには大きすぎる。だが、蓮が探していたのは寝室の数ではなかった。音を出す部屋、歌詞を書く部屋、演奏仲間が泊まる部屋、過去の楽器を保管する部屋。そして、何もしない部屋。それぞれを無理に重ねずに持てる広さだった。
内見の日、南西から入る光が長い廊下を照らしていた。窓を開けると、都心のスタジオでは聞こえない風と鳥の声が入った。蓮は広い一室の中央に立ち、まだ何も置かれていない壁を見た。ここなら、音を鳴らさない時間も制作の一部にできる。
豪華な家を、静かな仕事場へ
購入後、蓮は建築士と音響設計者に相談した。既存のリノベーションを生かしつつ、近隣へ音が漏れない独立した録音室をつくる。電気容量や空調、搬入動線も確認する。広いからといって、すぐスタジオとして使えるわけではない。住宅地で音楽制作を続けるには、設備以上に周囲への配慮が必要だった。
一番大きな部屋にはグランドピアノを置いた。壁を機材で埋めず、古いソファと譜面台だけを置く。別の部屋は作詞室にして、通信環境をあえて最低限にした。スマートフォンは玄関近くの棚へ置く。通知から離れなければ、葉山まで来た意味がない。
二つの納戸は、長年保管場所に困っていた楽器と録音テープを収めるアーカイブになった。客室には、仕事仲間ではなく友人として泊まれるベッドを用意した。
誰にも聴かせない一曲から
最初の週、蓮はほとんど録音をしなかった。朝に庭を歩き、昼は窓辺で本を読み、夕方にピアノを数音鳴らす。以前なら、何も生まれない日を失敗と呼んでいただろう。
五日目の夜、廊下を歩いていると、部屋ごとに響きが違うことに気づいた。木の響き、厚い壁の静けさ、窓の向こうの雨。その違いを録音し、短い旋律を重ねた。歌詞もタイトルもない、三分ほどの曲になった。
スタッフに送るつもりはなかった。発売もしない。それでも翌朝、蓮は久しぶりに続きを作りたいと思った。
成功の先に、守る場所を持つ
高額な邸宅を買うことは、華やかな成功の証にも見える。けれど蓮にとって、この家は見せるための別荘ではなかった。長く音楽を続けるため、創作を消費から守る場所だった。
都内での仕事は変わらない。撮影もライブも会議もある。ただ、予定が終われば長柄へ戻る。玄関を閉め、アトリエの灯りをつける。そこには発売日を持たない音が待っている。
売れる曲をつくってきた人が、誰にも聴かせない曲をつくる。その自由を取り戻すには、広い家よりも、静かに立ち止まれる場所が必要だった。
三浦郡葉山町長柄の中古戸建
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